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Posted by あしたさぬき.JP at

2016年03月21日

古文書「当世絵様集」★明治時代の宮大工の手習い


まあ、この文献にどれだけの価値があるかは分からないのですが、
明治24年に書かれた古文書を見せていただきました。

これは、善通寺市にある
青龍神社(鷺井神社)を明治時代に建造(再建?改修?)した宮大工が残されたもので、
明治24年4月に描かれたものとの記述があります。

この宮大工さんは明治12年の生まれで
?明治12年生まれで、明治24年描写?
12歳でこの絵はかけるのでしょうか?

描かれた
書かれた絵の内容は
金刀比羅宮の欄間などを模写されております。

まあ、僕は歴史研究家でも何でも無いので、
この資料の価値を判断はできませんが、
その地域にとっては、アイデンティティを目覚めさせる貴重な資料となるのかもしれませんね。

======善通寺市HPより引用
http://www.city.zentsuji.kagawa.jp/soshiki/50/digi-m-culture-detail-013-index.html

吉原小学校の近くにある鷺井神社の境内に青龍古墳はあります。つまり青龍古墳の東側の丘を削ったところに神社が建っています。 
 青龍古墳は、これまで前方後円墳といわれていましたが、平成5(1993)年の調査で、5世紀後半に築造され、平野部に低く広がった尾根の先端を利用した2段築の円墳であることがわかりました。幅の広い周庭帯(しゅうていたい)と呼ばれる平坦地が古墳を取り囲んでいます。この周庭帯は規模がかなり大きいので、古墳を誇張するためだけでなく、何か特別の目的があったものと考えられています。これを含めると全長78m、円墳としては他に見られない大きさになります。また、外側の濠跡は、中世の頃の戦さの陣地になった時に掘られたものとわかりました。さまざまな時代の痕跡が積み重なって現在の姿になったのです。
 古墳丘の北側に自生する葦は、葉が片側ばかりにつく「片葉の葦(あし)」と呼ばれる珍しいもので、青い鷺が龍に乗って止まった形から名づけられたという伝説もあります。市指定文化財。

======
-「香川縣神社誌」(S13,香川縣神職會編)によると、-
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/9180/yosihara/hsagii00.htm
より転記

村社 鷺井神社 吉原村大字吉原字鷺井
 祭神 少彦名命
 由緒 僧空海の創建と傳へらる。・・・社傳によれば、空海在唐の砌大旱あり。唐主空海に命じて雨を祈らしむ。空海乃ち少彦名命を祈ること三日にして大に雨ふる。これに依りて歸朝の後祠を建てゝ之を祀り唐青龍寺鎮守に擬して青龍大權現と稱すと。 社地の地形は一つ巴の形とし(一つ巴は水滴を意味す)その内外を濠とし、中央高くして社殿あり。瓦に一つ巴の紋を用う。こは何れも祈雨の靈驗を表示せるものなりと云ふ。・・・社前に一霊泉ありて鷺井又は青鷺井と稱す。仁壽元年九月朔日一青鷺の傷きしが此の地に下り居ること三日三夜その傷全く癒えて去れり。其の跡に清泉湧出す。時に神社童に憑りて、此の水眼病を療すべしと云ふ。 村人驚きて神水と崇めたりしが、香川信景(多度、三野、豊田三郡の領主)の子松之助頼景眼疾ありしに家士詫間大炊の勸めにより、祠官松岡刑部をして當社に平癒を祈らしめ、鷺井の水を以て眼を洗ひしに忽ち平癒せり、爾來香川氏の尊崇愈厚かりきと傳ふ。又往昔この地葦の繁茂せしを以て葦原と稱せしが後吉原と改めたり。 社傳に往昔一羽の青鷺片羽甚く損傷せるもの社前井の傍に來り居ること稍久しかりしが、傷癒え翼全くなりて飛去れり。これより社殿外濠の葦片葉となれりと。明治初年社前鷺井の名に因み鷺井神社と改稱す。明治十二年八月村社に列せられ、同四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。   


Posted by ゆうみんのいい奈良漬け at 07:00Comments(0)ほんまのその他