
2017年03月09日
【古高松学】番外編 ♦一宮地区の地図に見る、旧香東川の川筋
古高松という地域を、
普遍的な歴史資料である「地形」から、
読み解くということをして行きますと、
その他の地域に行っても、
その地域の地形から、その地域の成り立ちを考えてしまうくせがついてします。
今回、
たまたま、
「高松市立一宮小学校」におじゃましました。
下駄箱に、一宮小学校区の地図が2枚かけられています。
1枚が手作りのもので、
地域の大まかな道が描かれたもの

1枚が、
一般的な地図

僕が着目したのは
こちら、手作りの簡略化された地図です。

そもそも、
この辺りは旧香東川の支流が走っており、
江戸時代、生駒家が統治されていた時代、
当世の大土木技師「西嶋八兵衛」により、
香東川は付け替えられました。
(正確に言うと、香東川の東に伸びる支流を、香川町あたりでせき止めた)
その名残りは、高松市内のあちこちに残っているのですが、
この一宮地区は、旧香東川の支流の面影をバリバリに残すエリアです。

その、面影がこの地図にくっきりと現れています。
地図の左下(南西)から、北北東の方向に伸びる帯状のエリアがあります。
このエリアの上には、
一宮団地、高松南高校、一宮小学校、一宮中学校と、非常に新しい施設が縦に連なっています。
そして、この帯の上には、寺社仏閣が存在しません。
道を隔てて東側には、「田村神社」という大きな神社が存在するのに、ここには一切ないんですね。
つまり、この土地は非常に新しい土地であり、
つまりは、この下に昔は旧香東川の支流があったことを物語っているのでしょうね。
普遍的な歴史資料である「地形」から、
読み解くということをして行きますと、
その他の地域に行っても、
その地域の地形から、その地域の成り立ちを考えてしまうくせがついてします。
今回、
たまたま、
「高松市立一宮小学校」におじゃましました。
下駄箱に、一宮小学校区の地図が2枚かけられています。
1枚が手作りのもので、
地域の大まかな道が描かれたもの

1枚が、
一般的な地図

僕が着目したのは
こちら、手作りの簡略化された地図です。

そもそも、
この辺りは旧香東川の支流が走っており、
江戸時代、生駒家が統治されていた時代、
当世の大土木技師「西嶋八兵衛」により、
香東川は付け替えられました。
(正確に言うと、香東川の東に伸びる支流を、香川町あたりでせき止めた)
その名残りは、高松市内のあちこちに残っているのですが、
この一宮地区は、旧香東川の支流の面影をバリバリに残すエリアです。

その、面影がこの地図にくっきりと現れています。
地図の左下(南西)から、北北東の方向に伸びる帯状のエリアがあります。
このエリアの上には、
一宮団地、高松南高校、一宮小学校、一宮中学校と、非常に新しい施設が縦に連なっています。
そして、この帯の上には、寺社仏閣が存在しません。
道を隔てて東側には、「田村神社」という大きな神社が存在するのに、ここには一切ないんですね。
つまり、この土地は非常に新しい土地であり、
つまりは、この下に昔は旧香東川の支流があったことを物語っているのでしょうね。
2017年01月06日
千里ニュータウンの開発の流れの中にひっそりと佇む町「上新田」
古高松の歴史を地形的な側面から考察てきましたが、
その視点を持って他の土地を歩いてみると、
今まで気にならなかった事が次々と気になり始めます。
(歩く事が大事なのですけどね)
僕が生まれ育った街
千里ニュータウン

この超巨大な計画都市のど真ん中に
古のたたずまいを見せるエリアがあります。
それが、
豊中市上新田。
学校では「明治時代の小学校校舎が保存されている」
のようなことを習うのですが、
実際それがどんな意味合いがあるかなどは、
当時の子どもたちが気付くはずもありません。
今回たまたま、
千里の氏神様
と呼ばれる上新田天神さんに初詣に徒歩で行ったところ、
この周囲の地形というものが本当に良く分かりました。
千里ニュータウンの開発がされた1970年代以降も
今から30年くらい前まではこの辺りは一面の竹林でした。
しかし、一時期から一気に宅地開発が進み、
高級マンションが建ち並ぶエリアとなりました。
千里丘陵と呼ばれるほど、アップダウンの激しいエリアで、
マンションが建ち並んで入るのですが、
当時の地形を使った形で、
傾斜地にマンションが建ち並んでいる事が分かります。

古い町並みは今も残っており、
このように、
旧家と、竹林と、高層マンションが一つの写真に納まり、何かとても不思議な感覚になりますよね。
上新田エリアは、家が密集するエリアですので、
この中を新道が走っているのですが、
それ以外にも江戸時代からつづく旧道もしっかりと残っております。

こんな感じで、豊中市で一番古い道標も保存されています。
という事で、
ちょっと、郷愁を感じながら、
豊中市上新田をてくてく歩いたのでした。
その視点を持って他の土地を歩いてみると、
今まで気にならなかった事が次々と気になり始めます。
(歩く事が大事なのですけどね)
僕が生まれ育った街
千里ニュータウン

この超巨大な計画都市のど真ん中に
古のたたずまいを見せるエリアがあります。
それが、
豊中市上新田。
学校では「明治時代の小学校校舎が保存されている」
のようなことを習うのですが、
実際それがどんな意味合いがあるかなどは、
当時の子どもたちが気付くはずもありません。
今回たまたま、
千里の氏神様
と呼ばれる上新田天神さんに初詣に徒歩で行ったところ、
この周囲の地形というものが本当に良く分かりました。
千里ニュータウンの開発がされた1970年代以降も
今から30年くらい前まではこの辺りは一面の竹林でした。
しかし、一時期から一気に宅地開発が進み、
高級マンションが建ち並ぶエリアとなりました。
千里丘陵と呼ばれるほど、アップダウンの激しいエリアで、
マンションが建ち並んで入るのですが、
当時の地形を使った形で、
傾斜地にマンションが建ち並んでいる事が分かります。

古い町並みは今も残っており、
このように、
旧家と、竹林と、高層マンションが一つの写真に納まり、何かとても不思議な感覚になりますよね。
上新田エリアは、家が密集するエリアですので、
この中を新道が走っているのですが、
それ以外にも江戸時代からつづく旧道もしっかりと残っております。

こんな感じで、豊中市で一番古い道標も保存されています。
という事で、
ちょっと、郷愁を感じながら、
豊中市上新田をてくてく歩いたのでした。
2016年12月17日
頑張れ古中コンピューター部♣http://古高松のれきし.jp/index.html♣全国中学高校WEBコンテスト
古高松中学校のコンピューター部のみなさんが
第19回全国中学高校WEBコンテスト
に応募して
現在セミファイナリストとして頑張っていますので、
少し応援します。
彼らの作っているHPのテーマは
http://古高松のれきし.jp/index.html
その昔は
「多加津」としてこのエリアの重要な港町で
現在の「高松」の名前の由来になった場所ですからね〜
是非是非、
中学生の視点で
地域のいろいろな歴史を掘り起こしてほしいですね〜
ちなみに、
僕が古高松の史跡で一番好きなのは
故 久保桑閑先生の碑文
鍬塚

少年たちよ学を問え!^^
第19回全国中学高校WEBコンテスト
に応募して
現在セミファイナリストとして頑張っていますので、
少し応援します。
彼らの作っているHPのテーマは
http://古高松のれきし.jp/index.html
その昔は
「多加津」としてこのエリアの重要な港町で
現在の「高松」の名前の由来になった場所ですからね〜
是非是非、
中学生の視点で
地域のいろいろな歴史を掘り起こしてほしいですね〜
ちなみに、
僕が古高松の史跡で一番好きなのは
故 久保桑閑先生の碑文
鍬塚

少年たちよ学を問え!^^
2016年12月07日
松島地区史跡案内図 ♣ 江戸時代(高松藩)の面影を強く残すエリア「高松市松島地区」
『古高松』学番外編として、松島地区を紹介。

高松市の中心市街地から少し東に行ったところに
「松島地区」とうエリアがあります。
先日、とあるうどん屋さんにたちよった時、
松島地区史跡案内図
なる看板を目にしました。
そもそも、松島地区は
江戸時代は、高松藩の中心市街地から東方面に抜ける街道が存在し
その周辺にはいろいろな店舗が軒を連ねた事が容易想像できますし、
中心地から近い塩田としての役割もありました。
また、杣場川(せんばがわ)、御坊川(ごぼがわ)、詰田川(つめたがわ)という東に向かうためにこえないといけない大きな川もあります。
という事で、
このエリアは、江戸時代の高松藩城下町の面影をとてもたくさん残すエリアです。
旧街道はまちを斜めに通って、道の交差は非常に複雑になっておりますし、
塩田あとに整備された町と、旧市街地の区別は、都市計画からくっきりと分かれていますし、
今は蓋がされて存在を確認できない杣場川の名残り、
東に向かうための渡し船のあと
などなど、かなり興味深いポイントがあります。
なんて事を、再確認しました。

高松市の中心市街地から少し東に行ったところに
「松島地区」とうエリアがあります。
先日、とあるうどん屋さんにたちよった時、
松島地区史跡案内図
なる看板を目にしました。
そもそも、松島地区は
江戸時代は、高松藩の中心市街地から東方面に抜ける街道が存在し
その周辺にはいろいろな店舗が軒を連ねた事が容易想像できますし、
中心地から近い塩田としての役割もありました。
また、杣場川(せんばがわ)、御坊川(ごぼがわ)、詰田川(つめたがわ)という東に向かうためにこえないといけない大きな川もあります。
という事で、
このエリアは、江戸時代の高松藩城下町の面影をとてもたくさん残すエリアです。
旧街道はまちを斜めに通って、道の交差は非常に複雑になっておりますし、
塩田あとに整備された町と、旧市街地の区別は、都市計画からくっきりと分かれていますし、
今は蓋がされて存在を確認できない杣場川の名残り、
東に向かうための渡し船のあと
などなど、かなり興味深いポイントがあります。
なんて事を、再確認しました。
2016年10月18日
【古高松学】その15 歩く道♦そう、道は過去何百年に渡り、人が意志を持って踏みしめてきた場所
10月は秋祭りのシーズン
10月第2日曜日は高松市内各地でお祭りがあり(第1日曜日もね)

10月第3日曜日は、高松市の氏神様である「石清尾八幡宮」さんでのお祭りがあり、

今年は両方のお祭りに参加させていただきました。
そして、ほんといろいろ、気付きがありましたので、それは
【お祭りと文化】というタイトルで連載させていただきますが、
まずは、
【古高松学】を更新します。
そもそも、秋祭りは
秋の豊穣を地域の神様に報告する行事。

当地区のお祭りでは、
地区内を練り歩き、日曜日の正午に氏神様である
大宮八幡宮(屋島)に参内します。
で、
大事なのは、
「徒歩」
であること。

これはとても重要なことです。
当たり前ですが、車と徒歩では通る道が違います。
現代では、車を基準に道路が敷かれていますが、
車道は根本的に歩く道ではありません。
車がびゅんびゅん通って危ないし、
車が基準に作られているので勾配も急でかないません。
でも、徒歩の道は、昔ながらの道で、
地形や、勾配を上手に考えて敷かれており、
とても歩き易いのです。

そう、言うなれば、この明治時代の地図に載っている道のことです。
古高松地区は、明治時代の道と
現代の道路が混在したエリアであり
(まあ、どこもそうですが)
徒歩で移動するとき、古い街道を歩くととても歩き易いのです。
先日、お祭りで街中へ出る時に、
徒歩での集合、解散となりました。
その時通った道は、
現代の道路ではなく、
昔の人が踏みしめて作ってきた旧道だったのです。
メンバーは普段通り昔ながらの道を通って移動しているだけなのですが、
その道には過去の人々の意志が込められており、
今も変わらずその道は生きていたのですね。
祭りの衣装を着て旧道を歩く風景は、
僕にとっては初めて見る風景だったのですが、
ほんと、何度も見慣れた風景のように思えてとても感動したのです。

願わくは、この風景が、何世代にも渡って続きますことを。
10月第2日曜日は高松市内各地でお祭りがあり(第1日曜日もね)

10月第3日曜日は、高松市の氏神様である「石清尾八幡宮」さんでのお祭りがあり、

今年は両方のお祭りに参加させていただきました。
そして、ほんといろいろ、気付きがありましたので、それは
【お祭りと文化】というタイトルで連載させていただきますが、
まずは、
【古高松学】を更新します。
そもそも、秋祭りは
秋の豊穣を地域の神様に報告する行事。

当地区のお祭りでは、
地区内を練り歩き、日曜日の正午に氏神様である
大宮八幡宮(屋島)に参内します。
で、
大事なのは、
「徒歩」
であること。

これはとても重要なことです。
当たり前ですが、車と徒歩では通る道が違います。
現代では、車を基準に道路が敷かれていますが、
車道は根本的に歩く道ではありません。
車がびゅんびゅん通って危ないし、
車が基準に作られているので勾配も急でかないません。
でも、徒歩の道は、昔ながらの道で、
地形や、勾配を上手に考えて敷かれており、
とても歩き易いのです。

そう、言うなれば、この明治時代の地図に載っている道のことです。
古高松地区は、明治時代の道と
現代の道路が混在したエリアであり
(まあ、どこもそうですが)
徒歩で移動するとき、古い街道を歩くととても歩き易いのです。
先日、お祭りで街中へ出る時に、
徒歩での集合、解散となりました。
その時通った道は、
現代の道路ではなく、
昔の人が踏みしめて作ってきた旧道だったのです。
メンバーは普段通り昔ながらの道を通って移動しているだけなのですが、
その道には過去の人々の意志が込められており、
今も変わらずその道は生きていたのですね。
祭りの衣装を着て旧道を歩く風景は、
僕にとっては初めて見る風景だったのですが、
ほんと、何度も見慣れた風景のように思えてとても感動したのです。

願わくは、この風景が、何世代にも渡って続きますことを。