
2016年07月31日
【かがわの国保〜讃岐礼讃】 ❤ ナスと郷土料理

香川県国民健康保険団体連合会さんが発行されている機関紙
「かがわの国保」
3ヶ月に1回の発行ですが、
この機関誌の「食のページ」の監修をさせていただいております。
今回のテーマは
「ナス」
なんですが、
ナスを普通に紹介しても面白みも無いので、
文化的な側面から、ナスを紹介させていただいております。
ちょっとレアな冊子ですが、市役所などの国民健康保険の部署には設置されているでしょう。
2016年07月30日
【古高松学】その5 ♦妙覚寺 〜源平の伝説も残る、浄土真宗大谷派の寺院。
歴史書にも名を連ねる寺院「妙覚寺」。
歴史を考える上で、その地域の寺社仏閣は重要なのは言う間でもありません。
寺社仏閣が、その地の歴史を保管している、当時の雰囲気を残すだけではなく、
基本寺社仏閣の敷地は開発される事が少ないので、
当時の地形をそのままに残すという事、
そして、特にそれに付随する墓地についても、
同様に開発から免れ、当時の地形を考える上で、とても参考になるという点を僕は重要視しております。
で、こちら古高松は津村にある、浄土真宗大谷派の寺院
妙覚寺さん。

歴史書にも、どのようにひらかれたというのが明確に記載されています。
この辺りは、あえて素人の僕が述べることははばかられますのでちょっと置いておいて。
で、この妙覚寺さんに関する伝承や記録の面白いところをピックアップしたいと思います。
現在、このエリアの子どもたちは
「高松市立古高松小学校」に通っています。
しかし、この辺から小学校までは約2kmほどあり、結構遠いいんですよね〜。
で、実は、この妙覚寺さん、
明治時代、あちこちに小学校ができたのですが、
実は古高松小学校が明確に組織される前は、
妙覚寺さんに小学校がおかれていたという事です。
古高松郷土史によりますと
「明治5年11月、津ノ村の妙覚寺に第18仮校舎を設け、西潟元、東潟元、屋島、古高松、新田、庵治の六か村の児童を就学させた。」
とあります。
また、
高等小学校については
「明治28年7月、ふるたか松村津ノ村に新校舎が竣工した。」
まあ、この辺りの土地を見るに、
実はこの界隈って、海と山の間の狭い土地となりますので、まとまった土地がありません。
まとまった土地と言えば、前回紹介した
(1)久保邸
(2)揚邸(今度紹介します)
(3)妙覚寺
しかありません。
まあ、そんな経緯で、ここにたちまち小学校がおかれたのかもしれません。
この辺は推測の域を抜けませんけどね。
でも、実は、もっと深い力が働いているような気はします。
何故、古高松村の小学校が、最初「地頭名」では無く「津ノ村」だったのか?
屋島、庵治方面からの交通の便だったのか?
人口密度の問題なのか?
などなど、謎は深まるばかりです。

でもう一つ面白い伝承が
「源平の合戦のおり、源義経が妙覚寺から平家の陣を見渡して、合戦勝利を祈願した石が残る」
と言うもの。
(出典『讃岐国名勝図会』(江戸時代))
まあ、この伝承については、まあ多分後付けかもしれませんし、
妙覚寺の方も、
「良く問われるが、真贋については不明」との見解を示されています。

しかし、このエピソードが嘘か誠かは別として、
実は、妙覚寺さんからは、平家の布陣が実に良く見えます。
上記の写真が、妙覚寺さんから屋島の古戦場を見たもの
(正確には5M低い位置からの写真です)
なのですが、
東は総門跡から、中央に壇ノ浦古戦場を挟んで、西は安徳天皇社(内裏がおかれたと言われる場所)がみごとに見渡せます。
妙覚寺さんは、
白石山脈の北端に飛び出た尾根の上、海抜10Mくらいの高台に築かれています。
実は、妙覚寺の背面(南側)も小高い山であり、
現在は宅地開発でその面影は見えませんが、
標高25〜30mの小山になっています。
当時、何も建物の無い時代、25mも登ればかなり遠くまで眺望ができたと考えられます。
ちなみに、妙覚寺の墓地が、
この山の西側に残っており
(つまり、当時の地形が削られずに残っており)
ここから西側を望めば、高松市内がみごとに一望できます。

妙覚寺の歴史を転記しますと以下のとおり。
由緒:妙覚寺は、永禄年間に沙門教立によって創建された。教立は本願寺教如上人に帰依していたが、
長宗我部の兵乱の時、焼け残った親鸞上人御真筆の六字の名号を本尊として開創したと伝えられ、
現在の童字は六世慧林の時に建立された。(古高松郷土史より)
歴史を考える上で、その地域の寺社仏閣は重要なのは言う間でもありません。
寺社仏閣が、その地の歴史を保管している、当時の雰囲気を残すだけではなく、
基本寺社仏閣の敷地は開発される事が少ないので、
当時の地形をそのままに残すという事、
そして、特にそれに付随する墓地についても、
同様に開発から免れ、当時の地形を考える上で、とても参考になるという点を僕は重要視しております。
で、こちら古高松は津村にある、浄土真宗大谷派の寺院
妙覚寺さん。

歴史書にも、どのようにひらかれたというのが明確に記載されています。
この辺りは、あえて素人の僕が述べることははばかられますのでちょっと置いておいて。
で、この妙覚寺さんに関する伝承や記録の面白いところをピックアップしたいと思います。
現在、このエリアの子どもたちは
「高松市立古高松小学校」に通っています。
しかし、この辺から小学校までは約2kmほどあり、結構遠いいんですよね〜。
で、実は、この妙覚寺さん、
明治時代、あちこちに小学校ができたのですが、
実は古高松小学校が明確に組織される前は、
妙覚寺さんに小学校がおかれていたという事です。
古高松郷土史によりますと
「明治5年11月、津ノ村の妙覚寺に第18仮校舎を設け、西潟元、東潟元、屋島、古高松、新田、庵治の六か村の児童を就学させた。」
とあります。
また、
高等小学校については
「明治28年7月、ふるたか松村津ノ村に新校舎が竣工した。」
まあ、この辺りの土地を見るに、
実はこの界隈って、海と山の間の狭い土地となりますので、まとまった土地がありません。
まとまった土地と言えば、前回紹介した
(1)久保邸
(2)揚邸(今度紹介します)
(3)妙覚寺
しかありません。
まあ、そんな経緯で、ここにたちまち小学校がおかれたのかもしれません。
この辺は推測の域を抜けませんけどね。
でも、実は、もっと深い力が働いているような気はします。
何故、古高松村の小学校が、最初「地頭名」では無く「津ノ村」だったのか?
屋島、庵治方面からの交通の便だったのか?
人口密度の問題なのか?
などなど、謎は深まるばかりです。

でもう一つ面白い伝承が
「源平の合戦のおり、源義経が妙覚寺から平家の陣を見渡して、合戦勝利を祈願した石が残る」
と言うもの。
(出典『讃岐国名勝図会』(江戸時代))
まあ、この伝承については、まあ多分後付けかもしれませんし、
妙覚寺の方も、
「良く問われるが、真贋については不明」との見解を示されています。

しかし、このエピソードが嘘か誠かは別として、
実は、妙覚寺さんからは、平家の布陣が実に良く見えます。
上記の写真が、妙覚寺さんから屋島の古戦場を見たもの
(正確には5M低い位置からの写真です)
なのですが、
東は総門跡から、中央に壇ノ浦古戦場を挟んで、西は安徳天皇社(内裏がおかれたと言われる場所)がみごとに見渡せます。
妙覚寺さんは、
白石山脈の北端に飛び出た尾根の上、海抜10Mくらいの高台に築かれています。
実は、妙覚寺の背面(南側)も小高い山であり、
現在は宅地開発でその面影は見えませんが、
標高25〜30mの小山になっています。
当時、何も建物の無い時代、25mも登ればかなり遠くまで眺望ができたと考えられます。
ちなみに、妙覚寺の墓地が、
この山の西側に残っており
(つまり、当時の地形が削られずに残っており)
ここから西側を望めば、高松市内がみごとに一望できます。

妙覚寺の歴史を転記しますと以下のとおり。
由緒:妙覚寺は、永禄年間に沙門教立によって創建された。教立は本願寺教如上人に帰依していたが、
長宗我部の兵乱の時、焼け残った親鸞上人御真筆の六字の名号を本尊として開創したと伝えられ、
現在の童字は六世慧林の時に建立された。(古高松郷土史より)
2016年07月29日
【古高松学】その4 ♦高松町が生んだ大学者「久保桑閑」と「久保邸」と「鍬塚」と「くぼのもん」
江戸時代中期
古高松には久保桑閑という大学者が存在しました。
高松松平藩において初めて長崎に遊学するなどの記録はあるのですが、その偉大さのわりには、
歴史の表舞台にはなかなか出てこないのです。
ただ、高松藩における功績は実に大きく、
「平賀源内」「柴野栗山」の香川を代表する偉人の師匠にあたると言えば理解し易いのかもしれません。
久保桑閑のエピソードとして有名なのは、
飲み水に困っていた古高松津の村エリアに掘った井戸の伝承から、
人々の功績ではなく、鍬の功績をたたえた事があります。
先生の功績をたたえるために、
その場所に
「鍬塚」という石碑が
建てられました。
「鍬塚
昔(1300年くらい?)、水に苦労した津ノ村(高松市高松町字津ノ村周辺)の民が井戸を掘りあてて、
その井戸を掘りあてた鍬を井戸の傍らに埋めて、後世に伝えた。
先生曰く「鍬の偉業を忘れないでほしい(1748年夏)」
みたいな感じです。

で、
久保桑閑大先生の住んだ界隈を探ってみますと、
こちらも、明治の地図にその屋敷が書かれています。

赤く囲んだ部分に四角い屋敷が描かれていますが、
これが久保邸となります。
久保邸の左下の屋敷については後日語るとして、
この時代、他の家は黒い点である事に対し、
久保邸が、四角い屋敷として表されている事から、
久保邸の巨大さを容易に想像できます。

実はこの久保邸跡は、今はJAさんが駐車場として使っているのですが、
旧地図に見られる、久保邸から東に延びる道は、現存しており、
その道の途中に
鍬塚が有ります。
ちなみに、鍬は井戸のそばに埋めたとありますが、
その横のアスファルトが井戸の形に崩れているのは気のせいでしょうか?
ちなみに、『古高松郷土史』には
「この碑の東側にあった鍬塚泉は、現在は失われている」
とありますので、この丸い部分が泉のあとかもしれません。

更に言うならば、この鍬塚のある当り、
昔の子どもたちの集合場所であり
くぼのもん(高松市教育長談)
と呼ばれていたそうです。
明治の地図においても、久保邸の門に当り、
当時の建造物が、今となっても言葉として残っている事が良く分かります。


更に、久保邸の敷地がどの程度の大きさなのかは、
現在は国道11号線の用地として削られているので視覚的には分かりませんが、
久保邸の北側のみごとな石積みが現存しており、その敷地の広さを慮れます。
なお、久保邸敷地の北西角もその石積みとして明確に現存しており、
ここから、当時の久保邸を現在の地図に落とし込むとこのような位置関係になります。
超巨大な豪邸の跡が浮かび上がります。

明治の地図では、きっちり南北に四角い土地として描かれていますが、
実際の正方形を当てはめてみると、わずかに傾いている事が分かります。
もしかしたら、正方形ではなく、わずかに菱形のような地形をしていたのかもしれません。
(東側の境が不明なので、この辺りは法務局の旧図での確認が必要ですね)
古高松には久保桑閑という大学者が存在しました。
高松松平藩において初めて長崎に遊学するなどの記録はあるのですが、その偉大さのわりには、
歴史の表舞台にはなかなか出てこないのです。
ただ、高松藩における功績は実に大きく、
「平賀源内」「柴野栗山」の香川を代表する偉人の師匠にあたると言えば理解し易いのかもしれません。
久保桑閑のエピソードとして有名なのは、
飲み水に困っていた古高松津の村エリアに掘った井戸の伝承から、
人々の功績ではなく、鍬の功績をたたえた事があります。
先生の功績をたたえるために、
その場所に
「鍬塚」という石碑が
建てられました。
「鍬塚
昔(1300年くらい?)、水に苦労した津ノ村(高松市高松町字津ノ村周辺)の民が井戸を掘りあてて、
その井戸を掘りあてた鍬を井戸の傍らに埋めて、後世に伝えた。
先生曰く「鍬の偉業を忘れないでほしい(1748年夏)」
みたいな感じです。

で、
久保桑閑大先生の住んだ界隈を探ってみますと、
こちらも、明治の地図にその屋敷が書かれています。

赤く囲んだ部分に四角い屋敷が描かれていますが、
これが久保邸となります。
久保邸の左下の屋敷については後日語るとして、
この時代、他の家は黒い点である事に対し、
久保邸が、四角い屋敷として表されている事から、
久保邸の巨大さを容易に想像できます。

実はこの久保邸跡は、今はJAさんが駐車場として使っているのですが、
旧地図に見られる、久保邸から東に延びる道は、現存しており、
その道の途中に
鍬塚が有ります。
ちなみに、鍬は井戸のそばに埋めたとありますが、
その横のアスファルトが井戸の形に崩れているのは気のせいでしょうか?
ちなみに、『古高松郷土史』には
「この碑の東側にあった鍬塚泉は、現在は失われている」
とありますので、この丸い部分が泉のあとかもしれません。

更に言うならば、この鍬塚のある当り、
昔の子どもたちの集合場所であり
くぼのもん(高松市教育長談)
と呼ばれていたそうです。
明治の地図においても、久保邸の門に当り、
当時の建造物が、今となっても言葉として残っている事が良く分かります。


更に、久保邸の敷地がどの程度の大きさなのかは、
現在は国道11号線の用地として削られているので視覚的には分かりませんが、
久保邸の北側のみごとな石積みが現存しており、その敷地の広さを慮れます。
なお、久保邸敷地の北西角もその石積みとして明確に現存しており、
ここから、当時の久保邸を現在の地図に落とし込むとこのような位置関係になります。
超巨大な豪邸の跡が浮かび上がります。

明治の地図では、きっちり南北に四角い土地として描かれていますが、
実際の正方形を当てはめてみると、わずかに傾いている事が分かります。
もしかしたら、正方形ではなく、わずかに菱形のような地形をしていたのかもしれません。
(東側の境が不明なので、この辺りは法務局の旧図での確認が必要ですね)
2016年07月28日
【古高松学】その3 ♦江戸時代より直角に曲がる道「角屋」この綺麗な直角はあり得んし。

そもそも「角屋」とは
古高松の自治会の一つ。
この界隈では古い町で、
自治会の結束も硬く、地域の名士が多く住まわれています。
さて、僕が、古高松の不思議さに取り付かれたのは
この「角屋」の角に気が付いてからです。
基本昔の道は、もともとの地形や勾配を利用した物となっているので、
直線、直角という物はそうそうお目にかかる事はできません。
(まあ、都会は別でしょうが)
で、この「角屋」には
直線の道と、直角の角が二つも存在します。
この地形は、この界隈で突出した異彩を放っています。
ちなみに
明治大正昭和と地図を見比べても変わらずに曲がっています。

実は江戸時代の絵画『讃岐国名勝図会』にも、
この「角屋」の90℃カーブは描かれており、
かなり古い時代から曲がっていた事が分かります。
書籍「屋島の塩業」を読んでみても、この地が江戸から明治にかけて塩田開発が行われた事も書かれておりますし、
さらに、この書物では「北縦貫道路(つまり現県道)は当時の防波堤を利用した」とも書かれておりますので、
その時の地形、つまりこの直線の道路は、江戸時代の防波堤の名残りなのかと考えることができます。
ちなみに、明治の時代の地図には、高松街道の南側に
水路らしき物も書かれています。
そもそも、香川県において「水路」は非常に重要な施設であり、
複雑な利水体系が組まれているので、おいそれと流れを変える事は無く、
古来の水路は現在でも生きています。
つまり、水路の位置から、当時の地形を連想する事も用意だったりします。

ちょうど「角屋」の角付近から東を見ますと、
太い水路が現在も生きていますし、
(谷本マート前)
その北(写真では左)に旧街道(高松街道)の名残りがしっかりと残っています。

ちなみに、「角屋」の角から南を見ると
当時の道と、西(写真では右)側に水路がありますので、
当時の道の太さを想像する事もできます。
2016年07月27日
【古高松学】その2 ♦ 考察のポイントをまとめておきます。

古高松を考察する上でのポイントをまとめておきます。
(先ずは、特徴的なこれらのポイントから考察します)
国土地理院発行の明治〜大正時代の古高松です。
古高松は歴史から取り残されたエリアなので、この頃にもまだまだ江戸時代の雰囲気が残ります。
この地図を見るとふしぎな物がたくさん見えてきます。
(1)一番左の南北に延びる一直線の道
(2)東西に延びる一直線の高松街道
(3)90℃折れ曲がる「角屋」
(4)王墓(平田)池
(5)「揚」邸
(6)「久保」邸
(7)妙覚寺
この古高松(津村)の狭いエリアに所狭しとふしぎな地形が見えてきます。
ちょっとこれらを先ずはひもといて行きます。