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Posted by あしたさぬき.JP at

2016年08月02日

【古高松学】その6 ♦平田池〜江戸時代の大土木技師、水神「矢延平六」の築いたため池

高松市高松町と高松市牟礼町の境、
国道11号線と旧国道に挟まれたエリアに大きなため池があります。
このため池が『王墓池』通称『平田池』です。
(どっちが通称が分かりませんが)

『讃岐のため池誌』によると
古高松エリアには60を超すため池が存在し、
それらのほとんどは、有史以前から戦国時代までに築かれた物で、
由緒が分かっているのはごく数カ所のみです。

ちなみにこの
平田池(王墓池)
はその数少ない由緒のしっかりしているため池の一つで、
高松松平藩において、松平頼重高の時代より活躍した土木技師
矢延平六が築造したと記録に残ります。

高松藩の藩主、生駒公の時代、この界隈は、塩田として大規模開発がなされ、
平田池付近は、北側の防波堤と山の間という事で放置されていたみたいです。(「讃岐国大日記」より)
その後、松平公の時代、この地の新田開発が行われ、その水源として平田池が整備されたとあります。

北側に位置する立石山脈の北稜と、陵墓(神櫛王墓)を南北に、

東西に人口の突堤が築かれています。




で、まあ、その辺は記録として分かるのですが、大事なのは、この平田池の軍事的な意義です。

高松の西の要所、現在の高松市鬼無町と国分寺町の境に
「衣掛池(こかけいけ)」というため池があります。
このため池は、生駒家の時代、西嶋八兵衛により築かれた記録が残るため池です。(「讃岐名勝図会」より)
この本に衣掛池はどのように表現されているかと言うと
「西は山岸にて東はこの地なり。その間一丈ばかりの道にて実に要害の地なり。一卒これを守れば万兵も越えがたき絶所なり」
と。

この表現を平田池に当てはめますと、
この地はまさに高松の東の要所です。
平田池(王墓池)ができる前はどんな地形かはもはや知るすべはありませんが、
平田池(王墓池)ができて以降は、
高松を越えて東に行くにはここを通らざるを得ず、関所としての機能を発揮し、
また、有事には、高松の東の関門としての軍事拠点の機能を発揮したのでしょう。

という事は、この地にはそれなりのスタッフや施設を置かざるを得なくなります。
(まあ、江戸時代以前からも同じでしょうか)

そんな方向で、この地は発展ししたそのように感じます。  


Posted by ゆうみんのいい奈良漬け at 07:00Comments(0)『古高松』学