2016年08月10日
【古高松学】その8の4 「揚さん」と「神櫛王舎」♦そもそも「揚さん」の土地はもとは何だったのか?
「古高松」の津ノ村と呼ばれる地区は、
屋島と立石山脈の北陵に囲まれた帯状のエリア。
このエリアを考える上で最重要なポイント。
それが「揚(あげ)さん」の存在です。
これまで
記録や地形から揚さんの存在を見つめてきましたが、
ここからは、ちょっともっと想像を働かせて、いろいろ妄想をしてまいりたいと思います。
(4)揚さんと「神櫛王舎」
古高松、特に津ノ村界隈は、史跡なども大量に残る歴史ロマンあふれるエリアですが、
いかんせん、記録がありません。
源平屋島の戦いでも、海に向かって陣を敷いた平氏軍に対して、
源氏軍は虚をついて陸から攻め入ったとあります。
ただし、12世紀の古高松と、源平の史跡を復活させた江戸時代中期、
そして現代とでは、埋め立てなどにより海際の地形が劇的に変化しており、
当時の地形になぞらえると、ほんまにそれは正解なのか?
なんてことを疑問に思ってしまいます。
僕が欲しい記録というのは地図情報で、
高松市文化財課に問い合わせても、
江戸時代以前の詳細の海岸線には学術的な意義が見いだせないのか、
ざっくりとした記録しかありません。
古高松界隈の一番古くて詳細な地図といえば、
「高松藩領図」なのですが、これは江戸時代後期(1850年前後)とされ、
国土地理院発行の明治時代の地図に近い物があります。
で、これと同年代で『讃岐国名勝図会』(1852年)があり、これ以前の風景は、
想像するしかないのかな~と感じる次第です。
しかしまあ、この『讃岐国名勝図会』ですが、これが実は結構面白い作品で、
地図情報の他に、讃岐の各エリアを鳥瞰的にとらえていますので、
当時の風景が写実的に残っています。
で、古高松界隈を記載した地図に
他の住宅とは異なりひときわ大きな屋敷
揚さんが明確に描き分けられており、
その説明として「神櫛王舎跡」と書かれております。
ただし、この言葉の説明につては『讃岐国名勝図会』には記載されていないのです。
文字はあるけど説明書きは!
と思って、別の文献をあさっておりますと、
それを『讃州府志』に求めることができました。
『讃州府志』にはこうあります。
「神櫛王舎跡 津村與十郎宅」(原文のまま引用)
詳細な解説は『古高松郷土史』にあり、
要約すると
「高松市高松町2325−2 揚小三郎宅に神櫛王の館があった」
という事です。
但し、伝承はある物の、物的証拠ではなく
(1)当時の交通は海運が主で、多加津(高松)の津村がこのエリアの玄関口であった事
(2)古高松津ノ村に神櫛王陵墓がある事
等の、現在に残る事実や事象から推察されております。
ただし、この表現が正しいかというと、
まあ、伝承や推測的なものがありますし、
実際発掘調査されたわけでもないので、微妙なところではありますが、
ここまで強烈に大きな敷地が古高松に存在するという事は、
あながち外れているとも言いきれない伝承であります。
実際、揚さんを考古学的な視点で調査をされておりませんので、
特に、この用地の東側の古い石垣の年代特定などを本気ですると、
これまでの伝承がもしかしたら事実の物となって白日の下にさらされるかもしれません。
参考文献
■香川県農業史
■古高松郷土史
■久保桑閑とその時代(高松市歴史資料館)
■讃岐国名勝図会
■讚州府志
■国土地理院 1/25000地図
■Googleマップ
■ゼンリン地図
※面識の無い僕が、えらそうに揚さんについて書く事お許しください。
屋島と立石山脈の北陵に囲まれた帯状のエリア。
このエリアを考える上で最重要なポイント。
それが「揚(あげ)さん」の存在です。
これまで
記録や地形から揚さんの存在を見つめてきましたが、
ここからは、ちょっともっと想像を働かせて、いろいろ妄想をしてまいりたいと思います。
(4)揚さんと「神櫛王舎」
古高松、特に津ノ村界隈は、史跡なども大量に残る歴史ロマンあふれるエリアですが、
いかんせん、記録がありません。
源平屋島の戦いでも、海に向かって陣を敷いた平氏軍に対して、
源氏軍は虚をついて陸から攻め入ったとあります。
ただし、12世紀の古高松と、源平の史跡を復活させた江戸時代中期、
そして現代とでは、埋め立てなどにより海際の地形が劇的に変化しており、
当時の地形になぞらえると、ほんまにそれは正解なのか?
なんてことを疑問に思ってしまいます。
僕が欲しい記録というのは地図情報で、
高松市文化財課に問い合わせても、
江戸時代以前の詳細の海岸線には学術的な意義が見いだせないのか、
ざっくりとした記録しかありません。
古高松界隈の一番古くて詳細な地図といえば、
「高松藩領図」なのですが、これは江戸時代後期(1850年前後)とされ、
国土地理院発行の明治時代の地図に近い物があります。
で、これと同年代で『讃岐国名勝図会』(1852年)があり、これ以前の風景は、
想像するしかないのかな~と感じる次第です。
しかしまあ、この『讃岐国名勝図会』ですが、これが実は結構面白い作品で、
地図情報の他に、讃岐の各エリアを鳥瞰的にとらえていますので、
当時の風景が写実的に残っています。
で、古高松界隈を記載した地図に
他の住宅とは異なりひときわ大きな屋敷
揚さんが明確に描き分けられており、
その説明として「神櫛王舎跡」と書かれております。
ただし、この言葉の説明につては『讃岐国名勝図会』には記載されていないのです。
文字はあるけど説明書きは!
と思って、別の文献をあさっておりますと、
それを『讃州府志』に求めることができました。
『讃州府志』にはこうあります。
「神櫛王舎跡 津村與十郎宅」(原文のまま引用)
詳細な解説は『古高松郷土史』にあり、
要約すると
「高松市高松町2325−2 揚小三郎宅に神櫛王の館があった」
という事です。
但し、伝承はある物の、物的証拠ではなく
(1)当時の交通は海運が主で、多加津(高松)の津村がこのエリアの玄関口であった事
(2)古高松津ノ村に神櫛王陵墓がある事
等の、現在に残る事実や事象から推察されております。
ただし、この表現が正しいかというと、
まあ、伝承や推測的なものがありますし、
実際発掘調査されたわけでもないので、微妙なところではありますが、
ここまで強烈に大きな敷地が古高松に存在するという事は、
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実際、揚さんを考古学的な視点で調査をされておりませんので、
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Posted by ゆうみんのいい奈良漬け at 07:00│Comments(0)
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