2016年08月20日
【古高松学】その11 ♦不自然なまっすぐな道〜その2 新田街道
古高松には不自然な道が2本あります。
僕が考える不自然さは、その道が自然形ではない事、
そもそも、古来の道というのは、地形やら水路やらに配慮して付けられており、
基本的に曲がったりしているんですよね。
でも、古高松には不自然にも直線の道が2本あります。
一つが前回紹介した
古高松から牟礼に抜ける
香川県道155号 牟礼中新線
過去に高松街道と呼ばれていた部分。
そしてもう一つが
JR屋島駅から琴電屋島駅へと向かう
県道150号線の一区間です。

今回は
県道150号線の一区間に着目したいと思います。
この道が直線である事は江戸時代の絵画(讃岐国名勝図会)にも描かれており、
この街道の両脇には、松の並木が植えられています。

現在も、マクドナルドのあたりに太い松の木があるのですが、
これは江戸時代から植えられている物なのですね。

(たぶん)

ちなみに、この街道の終点は
屋島神社
つまり
「讃岐東照宮屋島神社」
つまり
徳川幕府本流である松平公が、徳川家康をまつった神社となります。
つまり、
そこに向かう道はへんぴな物ではなく、整備された直線の道がその折に整備されれたわけですね。
讃岐東照宮 屋島神社
由緒
当神社は慶安4年(1651年)初代高松藩主松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。
以来、山王社として歴代藩主により奉斎されてきたが、文化元年(1804年)当時の高松藩主第8代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手する。左甚五郎の6世、5代目の左利平忠能が、松平家の客分棟梁となり、文化12年(1815年)に完成した。その後、明治4年には冠嶽神社と改め、さらに明治7年屋島神社と改称、同年県社に列せられる。明治15年に藩祖松平頼重公を合祀する。昭和48年2月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門(正面上部には鳳凰、両側の柱には上り龍、下り龍の彫刻は無事であった。社殿は翌年11月に再建され現在に至っている。
(旅 瀬戸内さんHPより引用)
ちなみにこの道は、旧街道である高松街道との交差点でT字路となり終わっています。

一方、その西側に、
塩江から屋島に続く
新田街道(県道30号線)
があり、これも香川県道155号 牟礼中新線との交差点でT字路となり終了しています。
実は、この二本の街道は独立して存在するのではなく、
過去の地図を見てみると
高松街道を過ぎてもこの道は延びており、
新田街道へと繋がっています。
ちなみにこの道はいつ着け変わったと言いますと、
このとおり
JR高徳線が着いた時点で諸々の問題から付け変わったのだと考えられます。
■JR高徳線開通前

■JR高徳線開通後

前後で、確実に道の付け代わりが確認できます。

(古高松出張所内にある明治後期当りの古高松の図(まあ、一部誤りは見えますが))
僕が考える不自然さは、その道が自然形ではない事、
そもそも、古来の道というのは、地形やら水路やらに配慮して付けられており、
基本的に曲がったりしているんですよね。
でも、古高松には不自然にも直線の道が2本あります。
一つが前回紹介した
古高松から牟礼に抜ける
香川県道155号 牟礼中新線
過去に高松街道と呼ばれていた部分。
そしてもう一つが
JR屋島駅から琴電屋島駅へと向かう
県道150号線の一区間です。

今回は
県道150号線の一区間に着目したいと思います。
この道が直線である事は江戸時代の絵画(讃岐国名勝図会)にも描かれており、
この街道の両脇には、松の並木が植えられています。

現在も、マクドナルドのあたりに太い松の木があるのですが、
これは江戸時代から植えられている物なのですね。

(たぶん)

ちなみに、この街道の終点は
屋島神社
つまり
「讃岐東照宮屋島神社」
つまり
徳川幕府本流である松平公が、徳川家康をまつった神社となります。
つまり、
そこに向かう道はへんぴな物ではなく、整備された直線の道がその折に整備されれたわけですね。
讃岐東照宮 屋島神社
由緒
当神社は慶安4年(1651年)初代高松藩主松平頼重公が、香川郡宮脇村の本門寿院境内に東照大神(徳川家康公)の神廟を建立し、崇敬したのにはじまる。
以来、山王社として歴代藩主により奉斎されてきたが、文化元年(1804年)当時の高松藩主第8代松平頼儀公は、この風光明媚な屋島山麓において社殿の造営に着手する。左甚五郎の6世、5代目の左利平忠能が、松平家の客分棟梁となり、文化12年(1815年)に完成した。その後、明治4年には冠嶽神社と改め、さらに明治7年屋島神社と改称、同年県社に列せられる。明治15年に藩祖松平頼重公を合祀する。昭和48年2月不慮の火災にあい、本殿、拝殿等を全焼したが、辛うじて神門(正面上部には鳳凰、両側の柱には上り龍、下り龍の彫刻は無事であった。社殿は翌年11月に再建され現在に至っている。
(旅 瀬戸内さんHPより引用)
ちなみにこの道は、旧街道である高松街道との交差点でT字路となり終わっています。

一方、その西側に、
塩江から屋島に続く
新田街道(県道30号線)
があり、これも香川県道155号 牟礼中新線との交差点でT字路となり終了しています。
実は、この二本の街道は独立して存在するのではなく、
過去の地図を見てみると
高松街道を過ぎてもこの道は延びており、
新田街道へと繋がっています。
ちなみにこの道はいつ着け変わったと言いますと、
このとおり
JR高徳線が着いた時点で諸々の問題から付け変わったのだと考えられます。
■JR高徳線開通前

■JR高徳線開通後

前後で、確実に道の付け代わりが確認できます。

(古高松出張所内にある明治後期当りの古高松の図(まあ、一部誤りは見えますが))
Posted by ゆうみんのいい奈良漬け at 07:00│Comments(0)
│『古高松』学